COLUMN

アール・デコ事始め

文:

パリで美術史の学生をやっていた時に東京都庭園美術館に勤めないかと持ちかけられた。その美術館の写真を見せられて驚いた記憶がある。フランスでも滅多に見ることができないアール・デコの建物がそのまま残っているパレスだったからだ。

 

アール・デコは1920年代から30年代に流行ったスタイルでその名残はパリ市内の建物の装飾、ドア、バルコニーの手摺などに残っているが、全館アール・デコというのは見たことがなかった。

 

当時通っていたエコール・ド・ルーブルの指導教授に写真を見せたら是非勤めなさいと言う。フランスでは館長は美術館内のアパートメントに住むので、私もそのパレスに住めると思ったらしい。しかも館長ではないのだが私がconservateur(フランス語でキュレーターの意)に誘われていると言ったらconservateurはフランスでは小さな美術館の場合は館長の意味なのでそう思ったらしい。

 

色々と迷ったが博士論文を中断しそこで働くこととした。

 

東京都庭園美術館の建物は日本人の設計で鉄筋コンクリートのシンプルな1930年代の様式が忍び寄っていることがうかがえるものだが装飾は全くフランスの盛期アール・デコだった。全体は国立セーブル製作所のアドバイザーでもあったデザイナーのアンリ・ラパンが監修した。ラパンは1925年のアール・デコ博覧会でもパビリオンのデザインを行なっていたのでその縁でこの建物の施主である朝香宮夫妻に出会ったのかもしれない。そう、朝香宮夫妻はその博覧会の時パリにいてすっかりアール・デコファンになってしまったのだ。

 

キュレーターの特権はこの建物に住まないまでも毎日その中で仕事ができることだ。館長室はアンリ・ラパンの壁画で埋め尽くされていてそこで会議、打ち合わせをする。ルネラリックのシャンデリアの下で秋の夕方くつろいだり、バウハウス様式が垣間見えるギャラリーで昼休みに庭園を眺めながら読書したりとアール・デコの中で過ごした数年は忘れがたい。

 

残念ながらいくつかの部屋は私が赴任する前にアンリ・ラパンの室内装飾を廃棄しホワイトキューブになっていた。それより驚いたのは倉庫を案内してもらったら大きなオブジェがゴロンとしている。尋ねるとそれはもともと館内にあった装飾品で美術館にするには邪魔だから撤去され、貴重なものらしいので捨てないで倉庫に入れてある、と言う。

 

それは後に庭園美術館の宝となるアンリ・ラパンの香水塔だった。その復元設置をお願いし続けたところ数年後に実現したのだが、当時は室内装飾も理解されていなかったし、ましてアール・デコについても理解はなかった。アール・デコの家具デザイナー、ミッシェル・デュフェの展覧会をした際に外務省に後援名義をもらいに言ったところ担当官は受け付けてくれたが素朴な質問をされた。

 

「古い家具を展示してどこが面白いんですか。普通は捨てますよね」

 

 

(つづく)清水敏男